山梨県議会 2016-12-01 平成28年12月定例会(第5号) 本文
虎三郎は国漢学校を開校し、身分を問わず入学を受け入れ、医学や化学など西洋の学問を先駆的に取り入れ、習熟度別独学やアクティブ・ラーニングのような方式も採用しました。 さて、今年度は、後藤県政にとりましても、ダイナミックアクションとして計画段階から実行段階に移り、着実に成果を上げて来られました。
虎三郎は国漢学校を開校し、身分を問わず入学を受け入れ、医学や化学など西洋の学問を先駆的に取り入れ、習熟度別独学やアクティブ・ラーニングのような方式も採用しました。 さて、今年度は、後藤県政にとりましても、ダイナミックアクションとして計画段階から実行段階に移り、着実に成果を上げて来られました。
その結果、設立された国漢学校は、山本五十六、小野塚喜平次東京帝国大学総長、藤野善蔵慶應義塾塾長、小原 直法務大臣など、多くの人材を育て上げることになりました。 あすをよくしようという米百俵の精神こそ、いろんな政策を実行し、時代の流れに合った改革を進めなければならない今の日本に必要であると思います。
米百俵という言葉、知事御存じと思いますけれども、長岡藩の小林虎三郎が、長岡の支藩のほうから、傷ついた兵士たちに米百俵来たとき、その米百俵をみんなに配って元気づければいいんですけれども、この小林が、この百俵は食べてしまえば終わりだと、だからこれで国漢学校という学校をつくって人材をつくろうやないかという決断をして、それから明治の逸材が生まれたことは、知事も御存じと思います。
その後,長岡市と発展し,当時の学校というんか,国漢学校は現在長岡市立阪之上小学校,新潟県立長岡高校となり,多くの人材を輩出しておると聞いております。切り捨てにより,先生の頭数だけは整っていたものの,非常勤講師を採用したために,勤務時間に制約があり,本当に生徒児童に対応できなかった場合もあったのじゃないかと思われます。
我が郷土である栃木市は、文豪山本有三先生の出身地であり、山本有三先生の戯曲「米百俵」の一幕に、長岡藩の小林虎三郎が三根山藩から送られた百俵の米を売って、「食えないからこそ、教育をするのだ、学校をつくるのだ」といって国漢学校をつくり、後に多くの著名人を世に輩出したといういわゆる米百俵の精神がありますが、本県財政においても厳しい台所事情ではありますが、米百俵の精神を持ってご答弁いただきたいと思います。
あすの日本を考えるということで、この小林虎三郎という、いわゆる大参事が説得をして国漢学校をつくり、友藩からいただいた米百俵をもとにして学校をつくり、そして、後々に「常在戦場」という言葉を残しました山本五十六とか、小野塚元東大総長等とかをここの地から生んだわけでございます。
米百俵で知られる、この米を基金にして国漢学校をつくり、人材育成に努めた小林虎三郎、松下村塾で明治維新から近代国家へと日本を導いた英傑を育て上げた吉田松陰、札幌農学校でクラーク博士に学び、武士道を世界に知らしめた新渡戸稲造、そして文学者として知られる夏目漱石、宮沢賢治もまたすばらしい教育者であったと書き記されております。
戊辰戦争後の長岡で、佐久間象山の門下生であった小林虎三郎が、敗戦後、見渡す限りの焼け野原の中で、「時勢におくれないよう、時代の要請にこたえられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成しよう」という理想のもとに、明治二年、お寺の本堂を借りて国漢学校を開校し、子供たちに素読を教えていました。
これは小林虎三郎という大参事が国漢学校というのを開いて、国の将来を教育に託したと、こういう話でございました。こういう言葉が戯曲等で残っているようでありますけれども、「国が興るのも町が栄えるのもことごとく人にある。食えないからこそ学校を建て、人物を養成するのだ」というくだりがございます。
もう1点、米百俵のお話で、長岡というところの、実は、このときの米百俵をいわゆる国漢学校にしようと、国学や漢学の学校にしようということを言ったのは小林虎三郎という方なんだそうでございます、物の本によれば。ちなみに、佐久間象山の弟子であったということではございますが。
次は「国漢学校発祥の地」と記された昌福寺を訪ねました。このお寺は、百俵の米を売って学校を建てるまで、この本堂を借りて学校として利用していたお寺です。悠久山公園の一角に小林虎三郎の碑があり、「今の長岡の富と力は翁の力であり、長くこれをたたえる」というようなことが書かれておりました。小林虎三郎が眠る興国寺には、立派なお墓があり、だれが供えたか、きれいな菊の花が供えられておりました。
明治三年六月十五日、小林虎三郎が命さえかけた国漢学校が開校いたしました。そのわずか七年後、明治十年八月二十四日の夏の暑い日、小林虎三郎は、「国の盛衰はすべて教育にかかっている」と言い残し、その命を閉じるのであります。享年五十歳であります。「国の盛衰はすべて教育にかかっている」、重い言葉であり、教育行政に身を置く者にとっては一生をかけるに値する言葉であると思うのであります。
こうして、虎三郎が命をかけて成し遂げた学校が開校され、「国漢学校」と命名され、士農工商という身分制度を廃し、だれでも入学できる学校としてスタートした。やがて、ここから山本五十六や学者、実業家、外交官等多くの偉材を生むもととなったと言われております。 政治、経済、社会が混迷している今、私たちは、小林虎三郎から多くを学ばなければならないと思います。
そして虎三郎は国漢学校を建てたのであります。後に、日本最初の医学博士小金井良精から山本五十六元帥まで、いや、田中角栄さんまで多くの人材が長岡から出たのは御存じのとおりであります。 食うや食わずの中から、人材を育てるために多くの経費がつぎ込まれている実在を知るとき、6,000億近い予算と7,000人の職員の研修所の予算が3,000万円少々と、本当にこれでいいのだろうか。
戊辰戦争で、賊軍の汚名とともに一敗地にまみれた長岡藩は、巻の在の三根山藩から贈られた米百俵を士族に分配しないで、売ったお金で国漢学校を設立し、後にここから多くの人材を世に送り出したという、教育の基本にもかわるような逸話を本県は持っています。困難な時代にこそ人を育てる、これが地域の発展の何よりの策であります。